和泉総合の左投げ捕手 右手のキャッチャーミットに込められた思いとは
「高校野球大阪大会・2回戦、東大阪大柏原15-0和泉総合」(31日、大阪シティ信用金庫スタジアム)
急造ではない。和泉総合・高野巧捕手(3年)は、右手にはめたキャッチャーミットを巧みに操り、左手で懸命のリード。無得点でのコールド負けのチームにあって、野球界では珍しい左投げの捕手の存在が際立った。
「左バッターの時に二盗された時はしんどいです。でもハンデも特徴やなと。(左投げで得したことは)特にないですが相手に覚えてもらったり(笑)」
小学2年の冬から野球を始め投手と一塁でプレー。ただ富秋中1年の時の、ある走塁練習中のこと。「僕が代わりに(キャッチャーに)いくとなって」。代役として捕手に入ると「そこで思いのほか気に入られて。監督が僕のキャッチャーにぞっこんで(笑)」とコンバートが決定した。
「2日後ぐらいに(監督が)キャッチャーミットを買ってきてくれて。(右手用は)普通の1・5倍ぐらいの値段みたいでしたが」 監督の思いに応えて中学時代はそのまま捕手でプレー。ただ和泉総合に入学後、すぐに野球部に入部したわけではない。1年の終わり頃に、昨年度のチームの井上爽士主将に誘われて入部を決めた。
「去年のキャプテンに誘われてです。正直、高校では野球をやるつもりはなかったんです。(中学での野球が終わって)野球用具一式、後輩にあげたりしていたので」
野球用具もない中でも、再び野球を続けることを決め、母校の富秋中を訪ねてみると「返したキャッチャーミットをまだ残してくれてたので」と「相棒」を手に取った。その後、ある日の練習試合で「ノリでキャッチャーミットを持ってきて僕がいきましょうかというぐらいでやったら、中学の時みたいに気に入られて(笑)」と左投げということも関係無くまたも捕手でプレーすることになった。
一度は野球から離れても、不思議な縁や、光るものを感じさせたことで、結果的に6年間使うことになった軟式用のキャッチャーミット。「軟式用なので痛いので(グリースを塗って)堅くしてある程度反発があるように使ってました」。高校卒業後は野球を辞め、ソフトボールのクラブチームでプレーする。
「(野球をやって)楽しかったですし、去年も今年もやって良かったです。自分なりにがんばれました。(ミットは)買ってもらった監督に返す形になるかなと。でももう(左投げの捕手は)現れないですかね(笑)」
代替大会であっても、最後まで前向きに完全燃焼できたことに意味があった。