【ターニングポイント】「○時○分・岩崎優」中学3年間!毎日往復20キロ走

 人は長い人生の中で、幾度となく岐路に立つ。そんな時に何を思い、感じ、行動したのか。「ターニングポイント」では、虎戦士がプロに入るまでのきっかけに迫る。第6回は岩崎優投手(28)。層の厚い中継ぎ陣の中で、貴重な左腕として活躍する左腕。その原点は清水第四中時代の恩師・斉藤鉄夫氏(85)から課されて3年間やり通した、ある「日課」にあった。

  ◇  ◇  

 どことなく、都会よりも時間がゆったり流れている。静岡市清水区。中央に緑が生い茂る幹線道路から、とある角を左に曲がると、日本平の中腹に位置する一軒の家がある。斉藤氏の自宅である。「今じゃ一人で買い物して上ってくるのが大変」と苦笑いで自宅前の坂道を見る。この場所が岩崎にとっての“原点”である。

 小学生の頃は水泳に打ち込み、中学で念願の野球ができることになった。身長は中学1年で172センチ。恵まれた体に加え、左投げというアドバンテージがあった。「体は大きいし、左だし、野球にはうってつけだな」と斉藤氏は当時の印象を語った。野球部の親たちからは「誰か専属にピッチングコーチが付けば良くなるよ」と評判になったほどだ。

 東海大一高と東海大工業(現在は合併して東海大静岡翔洋高)で、監督として甲子園出場を果たした斉藤氏。市民会報を見て、中学の野球部で指導に当たった際に岩崎と出会い、ある日「俺の家まで毎日走ってこい」と伝えた。

 練習後に帰宅した夜8時、9時ぐらいから、岩崎は自宅から約10キロ離れた斉藤氏の家まで毎日、往復を走った。雨が降っても、荒天でも。走った“証明”として、軒先にあるポストへ「○時○分 岩崎優」と紙切れに書いて投函(とうかん)した。

 後にも先にも、3年間毎日走り続けた教え子は岩崎だけだった。なぜ、走れと言ったのか。「1試合120球投げるのなら、240球ぐらい投げ込まないと、という指導です。走るのもそれと一緒で、10キロぐらい走ってもそのスタミナしかつかないから」と意図を説明した。

 翌朝、朝刊を取りに行った際に岩崎からの“手紙”を受け取った。「よく来たもんだよな」と少年時代の鍛錬に舌を巻く。岩崎本人は、中学進学前から斉藤氏の存在をそれとなく知っていたという。「地元でも有名で、その人の言うことは聞いておきなさいという雰囲気もあった。そういうことを言われたからやった方がいいんだな」と動機を明かした。

 365日、毎日同じ距離を走る精神力は並大抵ではない。おっくうになる日も当然訪れたが「行くのが当たり前だったから」とポストの前までたどり着いた。少年野球未経験で中学から軟式野球を始めた左腕。意外にも焦る気持ちは皆無で「ただ野球ができてうれしかったし、楽しかった。『コイツよりうまくなりたい』とガツガツはしていなかった」と当時を思い返した。

 純粋に野球ができる喜びが、何よりの原動力だった。「一つのことを3年間続けたというのは、すごく誇れることでもあったりするから。何かを続けるというのは、高校でも大学でも今でも、大事なことだと思う」と左腕は少し笑った。コツコツ毎日続ける。簡単なようで難しいことをやり遂げた3年間。走り続けた先に見た光景は、勲章でもある。

 技術的な指導はほとんどしていないという斉藤氏だが、中学3年時に「ボールをもっと前で放せ」と助言。「ボールが時々抜けたり、散らばることがあった。前で放せと言うとすぐできた。器用でした」。また“ケンケン投げ”という、片足にしっかり体重を乗せてから遠投する練習法も実践させた。

 清水東高に進学する際、斉藤氏から硬式用のグラブをもらった。「そういうことはしない人なんだけど。それでまた頑張ろうと思えた。高校でも大学でも今もそうだけど、だんだんステージが上がっていくことに喜んでくれていると思うし、それがうれしいから、自分も喜んでもらえるように」と思いをはせた。腕を振る理由の一つが恩師の存在であり、クールな左腕の心を熱くさせている。

 年末年始の帰省時には一緒に食事をする。斉藤氏はケーブルテレビで試合をチェック。遠く離れた静岡から、活躍を見届けている。「弱音を吐かないからね。俺も聞いてみたいけど」。岩崎優という男の長所を尋ねると、そう言ってほほ笑ましげに表情を崩した。

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