【昭和の虎模様】真弓明信氏は「磨けばダイヤモンド」-寝業師が取り返そうとした輝き

 今年、球団創設85周年を迎えた阪神タイガース。長い歴史の中では多くの名選手、名勝負が生まれ、数々の“事件”もあった。昭和の時代にデイリースポーツでトラ番を務めた平井隆司元編集局長が、栄光と挫折の歴史を秘話をちりばめ連載で振り返る。

  ◇  ◇

 プロ入りした真弓明信が1軍のベンチに入れてもらったのが1年目、1973年の5月。5日の日拓戦(平和台)で、遊撃の守備要員としてデビューした。その後に西宮球場への遠征に帯同。15日の阪急戦で九回裏の守備から出場した。僅差の試合展開。新米の遊撃手の足は震える。監督は稲尾和久。その緊張を見たくて守らせた。

 野球の世界ではよく見られる現象がある。交代した選手のところへ打球が飛ぶ。本当に真弓の右、左に2度もゴロが来た。失策、また失策。(2度目の公式記録は内野安打に訂正)。真弓の守備でサヨナラ負けを喫した。真弓はナインの顔を見ることができなかった。いわずもがな稲尾の顔も。

 専用バスで西宮・甲東園の宿舎に帰り、他の選手の隣で夜食を取っているところへ敗戦投手が一言。「失策を重ねて選手はうまくなっていくんだ」。監督の稲尾も慰めて真弓から離れた。怒鳴られると思った先輩と監督が優しい。

 世の中は、まして勝負の世界はそんなに甘くはない。翌朝、コーチが真弓を呼んだ。「荷物を片付けろ。福岡へ帰れ」。2軍落ちだけでなく、米大リーグ傘下1Aへの野球留学の指令も待っていた。

 真弓は社会人の電電九州から本拠地・福岡のライオンズにドラフト3位指名で入団した。その前後、老舗西鉄ライオンズは2年前の「黒い霧事件」(八百長野球)で大揺れし、球団名の権利を太平洋クラブに売り、すぐさまクラウンライターへと変遷した。

 その間、フロントが「真弓を戦力外に」と現場に持ちかけた。稲尾に代わって監督に就いていた江藤慎一は「彼は磨けばダイヤモンドになる」と怒り、真弓は生き延びた。

 黒い霧の騒動も落ち着きを見せた頃-78年のシーズンオフ。ライオンズを買収し、本拠地を福岡から埼玉・所沢に移した西武鉄道が阪神に救いを求め、田淵幸一、古沢憲司と若菜嘉晴、竹之内雅史、真弓明信、竹田和史という2対4の劇的なトレードが成立した。

 西武の窓口が根本陸夫(監督兼管理部長)、阪神が小津正次郎(球団社長、電鉄専務)だった。根本の呼称が「寝業師」で小津の別称が「オズの魔法使い」。やり手の二人が表に裏に動けば成らぬものも成る。

 この交換は田淵と若菜が主役だったが、真弓がダイヤの輝きを見せ、85年の日本一に貢献。田淵も西武で優勝を経験した。

 あるとき、根本が私と先輩記者の前で笑いながらこう言った。

 「(ライオンズに)真弓を返してくれ、なんていうのは都合がいい話だろうなあ」

 実は冗談ではなかったことが後に分かる。寝業師は水面下で実際に動こうとしていた。実現はしなかったが…。=敬称略=

 ◆真弓 明信(まゆみ・あきのぶ)1953年7月12日生まれ、66歳。福岡県出身。現役時代は右投げ右打ちの内・外野手。柳川商から電電九州を経て、72年度ドラフト3位で太平洋(現西武)入団。79年阪神移籍。首位打者1回、ベストナイン3回。通算成績は2051試合1888安打292本塁打886打点200盗塁、打率・285。95年現役引退後は近鉄打撃、ヘッドコーチを経て、2009~11年まで阪神監督を務めた。

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