【昭和の虎模様】小津正次郎が江川-小林交換トレード前日に…
今年、球団創設85周年を迎えた阪神タイガース。長い歴史の中では多くの名選手、名勝負が生まれ、数々の“事件”もあった。昭和の時代にデイリースポーツでトラ番を務めた平井隆司元編集局長が、栄光と挫折の歴史を秘話をちりばめ連載で振り返る。
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江川卓(阪神)と小林繁(巨人)の1対1の交換が煮詰まったのが、1979年の1月31日。明日がキャンプインという規約ぎりぎり。それほどもめにもめた“事件”だったが、その前日、虎の球団社長・小津正次郎は連盟や巨人との打ち合わせのため上京した。
銀座のビルに連盟の事務所があった。記者とカメラマンの数はゆうに100人を超えていた。小津を待ち受けているのである。
小津とコミッショナーらの会談が終わると、小津の周辺はごった返した。記者とカメラマンも身動きできない。
「おーい、トラ番はどこや。俺はトラ番にしかしゃべらんぞ」
小津が大声で叫んだ。これには東京のマスコミがカチンときた。「トラ番?トラ番だけ?あなたは何をおっしゃってるんですか?」と反発を食らっても、小津は「そうや、トラ番にだけや。あんたら東京勢にはトラ番のあとにしゃべる。それでええやないか」と言い切った。
ついでながら「トラ番」という呼称を生んだのはデイリースポーツの先輩記者で、昭和30年代に“阪神タイガース担当”になった。
今も健在で、トラ番の生い立ちを聞いたら「あのな、政界で当時、田中番とか福田番とか言うようになり、阪神番じゃあ語呂が悪いのでトラ番にと。巨人番とか中日番、近鉄番よりカッコいいと思ってな。要は政界から盗んだだけ」と謙遜しきりだったが、いつの間にか同業他社も使い、球界だけでなくフアンにまでも浸透した。
デイリースポーツには今も「トラ番25時」というコラムが掲載されているが、これも先の先輩の作品。40年を超えて今も脈々と引き継がれている。
そういえば4月末の「トラ番25時」で読んだ。かつてこのコラムになにがしかの話題で登場した小学生が、成人して就職してきたのがデイリー。そして今「トラ番25時」を書いていると。
先の先輩は「記事は手で書くんやない。足で書くんや」と教えてくれた。「要はいろんな人と会い、いろんな家を訪ねてネタを探すのが記者や。何?しんどいのは嫌です?明日からもう出社せんでええ」と教えられた。
そういえば先輩と小津は「人情」という点で共通しているような気がする。(敬称略)=おわり=
◆小津 正次郎(おづ・しょうじろう)1915年1月29日生まれ。三重県出身。旧制高松高等商業(現香川大)から36年阪神電気鉄道入社。78年に阪神タイガース球団社長就任。「江川-小林」の交換トレード、「田淵・古沢-真弓・若菜・竹之内・竹田」の大型トレードなどを成立させた。97年11月25日死去。